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第三章 99.9%の証明7

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 15:25:06

***

 退院して三日後、湊は会社に復帰した。体調はすっかり回復していた。

 朝の通勤時も、いつものようにスーツに身を包み、意気込んで本社ビルへ足を踏み入れる。

(――もう大丈夫)

 そう自分に言い聞かせながら、ロビーへ向かった。すると、井上さんが申し訳なさそうな表情で近づいてきた。

「九条くん、おはよう」

「おはようございます」

「社長から伝言です。今日から移動する際は、車が別になります」

「……え?」

「九条くんは、第二車両を利用してください」

 一瞬、言葉を失った。

 今までは、智臣と同じ車で向かっていた。それが今日から突然、別々になるという。

「何か……ありましたか?」

 恐るおそる訊ねると、井上さんは困ったように笑うだけだった。

「社長の判断です」

 それ以上は、何も教えてくれなかった。

 出張先へ到着すると、その違和感はさらに大きくなった。以前なら偶然一緒になることもあったエレベーターは、時間まで調整されているかのように一度も重ならない。

 会議では、湊の席は智臣から最も離れた位置になっていた。

 資料を渡そうとすると、

「井上」

 智臣は湊ではなく、井上さんを呼んだ。

「こちらを」

「承知しました」

 井上さんが資料を受け取り、そのまま智臣へ渡していく。以前なら、俺が直接渡していたのに――。

 その小さな違いが、胸に刺さった。

 仕事の指示は、以前と変わらず的確だった。けれど、それ以外の会話は一切ない。目も合わない。近づこうともしない。資料も、必ず机の上へ置くようになった。

 まるで、俺に触れること自体を避けているようだった。

(やっぱり……迷惑だったんだ)

 病院で倒れたこと。発表会を中止させてしまったこと。一晩中付き添わせてしまったこと。

 その全てが、全部が社長の負担になった。だから距離を置かれている。

 そう思うしかなかった。

 昼休み。秘書室で一人サンドイッチを食べていると、井上さんが紙袋を持って入ってきた。

「九条くん」

「はい?」

「社長から」

 そう言って、まだ温かい紙コップを机に置いた。

「温かいうちに飲んで」

「……え?」

 カップからは、ほのかにコーヒーの香りが立ち上っている。

「社長が?」

「そう」

 井上さんは穏やかに笑った。

「最近、少し疲れた顔をしているからって」

 それだけ言うと、井上さんは自分の席へ戻っていく。

 俺は紙コップを見つめた。

(……どういうことだよ)

 距離は置く。目も合わせない。触れようともしない。なのに、こういう気遣いだけはしてくる。

 近づいてはいけないと自分に言い聞かせながら、それでも気になって仕方がない――そんなふうに見えてしまう。

 思わず執務室の方を見る。ガラス越しに智臣の横顔が見えた。

 こちらには一度も視線を向けない。ただ黙々と仕事を続けている。その姿は以前よりも遠く感じるのに、不思議と以前より優しくも見えた。

 胸の奥が、じんわりと痛む。

 嬉しかった。智臣が自分のために一晩中、傍にいてくれたことが、ほんの少しだけ嬉しかったのに――。

 今はその距離が、こんなにも苦しい。

 智臣が遠ざかれば遠ざかるほど、自分がどれだけあの人を意識しているのかを、痛いほど思い知らされる。

 智臣は以前より優しかった。でも、その優しさは決して届かない。手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、二人の間には見えない壁が築かれていた。

(……嫌われたんだ)

 そう思うたびに、胸の奥が静かに痛んだ。智臣がその壁を築いた本当の理由を、俺はまだ知らない。

***

 その情報が九条家に届いたのは、湊が退院して四日目の夜だった。

 九条家の本宅――広大な敷地に建つ重厚な洋館。その奥にある書斎で、九条家当主・九条怜司は、一通の報告書に静かに目を通していた。

 そこに記されていたのは、病院のカルテそのものではない。

 九条家が独自に集めた情報だった。

 ――出張先で九条湊が突然倒れたこと。

 ――一ノ瀬智臣が自ら病院へ搬送したこと。

 ――オメガ反応を疑わせる症状が現れたこと。

 それだけで十分だった。

 怜司は書類を閉じ、ゆっくりと口元を緩める。

「……予定通りだ」

 低く呟いた声には、満足げな響きが滲んでいた。

 書斎のソファに腰掛けていた長男・蓮が、冷めた笑みを浮かべる。

「欠陥品だと思っていた湊が、ここまで反応するとは予想以上ですね」

 怜司はゆっくりと椅子にもたれかかった。

「やはり一ノ瀬智臣だったか……」

 その声には、確信があった。

 蓮が足を組み替えながら続ける。

「適合率99.9%。あの数字を見た時から、答えは決まっていました」

 怜司は静かに頷いた。

「ああ。欠陥オメガだったのではない。相手が違っていただけだ」

 その一言には、長年積み重ねてきた確信が滲んでいた。

 九条家は、最初から知っていた。

 湊と一ノ瀬智臣の最終適合検査で導き出された、99.9%という数値を。その数字が意味するものを。

 そして、欠陥オメガと切り捨てていた湊が、唯一無二の相手と出会えば、その価値が一変することも。

 怜司は指先で机を軽く叩く。

「勘当という芝居を打った甲斐があった」

 低い笑い声が漏れる。

「湊は、自ら一ノ瀬の懐へ飛び込んでくれた」

 蓮も口元を歪めた。

「一ノ瀬智臣も、九条家がここまで読んでいたとは思っていないでしょう。彼はきっと、『逃げ出したオメガを保護した』程度に考えているはずです」

 怜司は立ち上がり、夜の庭園へ視線を向けた。

「もう間もなくだ」

 静かな声だった。

「湊のヒートが本格化すれば、一ノ瀬も理性だけでは抑えられなくなる」

 そこで小さく笑う。

「あとは本能が仕事をする」

 その一言に、蓮も静かに笑みを返した。

「人間は理性で嘘をつける。しかし、番だけは裏切れませんからね」

 怜司は満足そうに頷いた。

「やがて九条の血は、一ノ瀬家へと繋がる」

 書斎に静かな笑い声が響く。

 九条家は、ただ待っていた。

 欠陥品と切り捨てた息子が、最高の「触媒」となる、その瞬間を。そして長年狙い続けた一ノ瀬グループとの結び付きを手に入れる時を。

 だが、その計画には一つだけ、九条家が読み違えていることがあった。

 一ノ瀬智臣という男は、運命に流されるだけのアルファではない。

 守ると決めた相手のためなら、99.9%という数字さえも利用し、自らの理性で運命に抗おうとする男だということを――。

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